管理人の日記、毎日のことやニュース、映画にドラマ、なんでもつらつら不定期更新。でもほとんどドラマの感想。
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シンゴジラに続いて最近の邦画、どうしちゃったの!!!
君の名は。よかったです。以下ネタバレ含みます この映画のことはまったく知らなかったのですが、シンゴジラを公開初日に見に行った時 映画が始まる前の宣伝でやっていた中のひとつがこれでした。 へえ〜また入れ替わりものかあ、最近多いなあ転校生から鉄板ネタだな…え?彗星?街を救う?あらSF要素も入ってくるんでしょうか…ちょっと興味でてきたな… みたいな感じで印象に残っていました。とにかくジブリと細田監督と攻殻機動隊の人以外のアニメ監督をぜんぜん知らないので見に行こうかどうしようかくらいなものでした。 そしてシンゴジラを見た後はもうシンゴジラで頭がいっぱいになっちゃうくらい良くて。 その映像を思い出しているついでに予告のこの映画のこともふと思い出すようになっていたんです。 で、初日に行きました。 すごい青春映画だ! ここ最近、タイムリープものがすごく流行っていました。入れ替わりものも漫画でたくさん作品がありました。その中で特筆するものだったのがorangeと僕だけがいない街。元はと言えば時をかける少女の映画からブームが始まっていたような気がします。 その流れでここにきて最高にいい出来のものがこの映画。 最初に上げた作品は、未来人を未来に返すため(時かけ)→友達が自殺するのを救うため(orange)→殺人事件を止めるため(僕だけがいない街)と、だんだん使命感が大きくなっていました。 で、この映画は「彗星が落ちて死んでしまった500人の町民を救う」が目的。自分のことも含めて。 なんて事が大きくなったの!!どんどんオオゴトになっています。でもやっぱりオオゴトの方がおもしろいんだよなあ〜〜〜 ハリウッド映画だとそもそも落下する彗星自体をなんとかして街におちないようにします。 しかし落ちてしまうのを止めるのではなく、町民を避難させることを目的とするのが日本らしいなと。 シンゴジラにしてもこの映画にしても、どことなく311の事を彷彿とさせるんです。 もし、なんとも思ってなかった日常が突然の災害で失われてしまったら。あの時に感じた絶望感の中から、どうにか希望を見いだそうとする人が映画を作る人の中にこんなにもいた事を感じます。 そういえばドラマでも朝ドラ含め夜の民放でも311の震災を取り入れたドラマがわりとありました。でも、素晴らしい!と絶賛されたり共感するようなものは少なかった気がする。むしろ安易に扱うことで叩かれたり、自分の自己満足のために震災を使うなと反感をもたれたりしました。 朝ドラのあまちゃんだけはちょっと好意的な意見もありましたが、あの痛みを払拭するような爽快感はなかった。 たぶん、震災というものをダイレクトに扱われると、見る方は拒否反応をおこしてしまう。描き方によっては反発すらしてしまう。 でもシンゴジラ、君の名は。に関しては直接的ではないんですよね。 ゴジラ、彗星という別のものにおきかえている。 漫画でもデッドデッドデーモンズデデデデストラクションという青年誌の漫画が売れていますが、これも震災を彷彿とさせるんですけど原因は宇宙人。 要するにフィクションにして、そこから見る側が勝手に311を結びつけて想いを巡らす、という方が日本人の性質に合っているのだと思います。 もちろんそのフィクション部分の説得力や面白さがあってのことですけど。 思えば宮崎駿の風の谷のナウシカ、もののけ姫、千と千尋、どれも完全なフィクションファンタジーですが、伝えたいメッセージは現実の自然破壊問題だったり、失われた自然に対する畏敬の念だったり。現実のくらしの問題に結びつけて考えさせられた部分があった、それこそがヒットの条件なんだと思いました。 君の名は。に関してはもう一つ今までのタイムリープと違う点がある。それは能力そのものにちゃんと理屈があること。 時かけは未来人のもっていた薬、というまあ単純なものでしたけど現実味はない。 orangeや僕街に関してはなぜその能力が使えるようになったのか、などの理屈の説明はいっさいない。振って湧いた幸運くらいの感じもしてしまう。orangeは能力ではなく未来の自分から手紙がくるのですが、そのからくりや理屈の説明はいっさいない。 しかしこの「君の名は。」は魔法や特殊設定のように思わせておきながら、代々続いてきた神社の巫女であるということ。そのお役目と目的と世界観が、まあ感心するくらいしっかりしているんですね。 飛騨高山とされていましたが実際あの神社があるのかどうかは知りません。 でもその神道の考え方、結びでつないでいく、生かされているという感覚。自然を神とすること。 この設定がすごくちゃんとしているのです。 だからこそこの監督がポストジブリと言われているのではないでしょうか。 宮崎監督は神道の考え方に基づいて、古来の日本の良さを映画で表現しようとしてきた方ですから。そのアイデンティティに通じるものがあるのです。 細田監督もバケモノの子を見る限り神道が下地にある気はします。おおかみ子供も山の神として生きることを選ぶなど、考え方の根底にある気はします。 でもそこに「畏れ」がない。 日本の神は祟りもするのです。 細田監督はどちらかというと、人間の中にこそ悪があるというのが基本にある気がするのです。 だからこそバケモノ、ケダモノ、自然に正義があるような感じに描いている気がする。 でもあくまで共存していくものであって、どちらが正しいとも言えないという曖昧さこそが日本だと思うんですよね。 それが一番表現できていたのが宮崎監督であり、日本を表現してきた第一人者。 その後を継ぐようなカテゴリでエンタメを作れる人が細田監督と、新たに新海監督が登場した。 新海監督の中にも古来の日本の感覚を大事にするものを感じました。彗星は止めるものではなく、人々が避難するもの。 これがハリウッドとの決定的な違いです。 この映画は簡単に言えば、入れ替わりものとタイムリープと311の痛みを全部ぶちこんだエンタメと表現することができる。 最近の流行をどっかんどっかん詰め込んだ。 でも、それはエンタメ部分であって核となるのは「結び」の考え方、神道、そしてあの自然風景です。これがなければ始まらなかった。 欲を言えば、彗星がいよいよ落ちてくるという直前に、おとうさんに直談判にいった主人公がどうやって父を説得し信じさせたか、そこからの街の動きなど、一番気になる部分をごっそり省かれたところにモヤモヤ感が残ります。なんでそこを見せないんだよ、と。想像に任せるよりもエンタメとして爽快感を感じたい部分を省かれてしまった感じがする。 同じ意味で、父親と母親ももしかしたら入れ替わっていたのではないか、それをきっかけに恋愛をしたのではないか。母が死んでしまって性格や生き方や神を信じる事じたい否定してしまうほど愛していた父親もまた、主人公の男の子と同じような立場だったのではないかと想像できる。 出来るのですがあまりにも想像部分に任せていてモヤモヤしてしまう、そういうところはあります。 想像はできるんです。父は入れ替わっている時に「馬鹿にしやがって」と言われ「お前、誰だ?」と言った。 それは自分が経験していたからこそ目の前にいる娘の中身が違う人間だと気付いたのかもしれない。で、後から走ってきた中身が娘の主人公から、入れ替わって3年後の事を知っていること、だから自分達は死ぬんだと聴かされて納得できたんだろうと。 でもおばあちゃんにしろ主人公にしろ、入れ替わっていた相手のことや入れ替わり自体は記憶から消えて行くもののはず。じゃあ父もそうではないのかと。 そこをどうあのひんまがった性格になってしまった父を懐柔したのか。 あの巫女の家系が代々うけついできた能力が、彗星からの被害をさけるためのものだとしたら 前に一度落ちていた彗星から助けた時の巫女以来、誰もその能力をフル活用はしていないのかもしれません。入れ替わりも一瞬のことで、記憶からは消えていく。 そこらへんは物語の枝葉の部分ではあるけど、せめて父親との確執、和解の部分はもうちょっと親切丁寧にやってもよかったんじゃないかな〜。 とにかくやたら走っている(乳も揺れている)描写がサービスかってくらい多すぎたのも気になる。それを3/2くらいにして父にまわしてもよかったんじゃないか。 とはいえ細かい伏線の張り方や前半のテンポのいいストーリー展開。 それぞれのキャラ、とくに主人公の妹。友達の田舎っぽさ。とてもよかった。 都会の子の方の友達はちょっとBL感がありましたがwそれもサービスかな? シンゴジラに続いて、本当にいろいろ語りたくなる熱い映画がめじろおし。素晴らしいです。 PR |
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